腹話術伝道の学び

No.48「腹話術と信仰成長⑤」

- 聖書は神のみことば -

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のため に有益です。」

テモテへの手紙第二3章16節

クリスチャンが腹話術を習い始める時、多くの人が「聖書を子どもたちに 伝えたいと思ったことが動機です」と言います。そして、事実その通りに、 教会学校や子ども会などで、人形と共に聖書の話をする方々がおられます。 ところがその内容は、残念ながら、日本昔話ならぬ“イスラエル昔話”か、単 なる“聖書物語”になっている場合が多いのです。それは、いったいどうしてでし ょう。そして、どうしてそれではいけないのでしょうか。  まず、どうしてそうなるかという原因を考えてみましょう。

腹話術はおもしろくなくてはいけない

多分、腹話術を学んだみなさんは、「人形と話せば、聖書の話が楽しくな り、子どもたちが集中して聞いてくれるはずだ」と思っているのではないで しょうか。ですから、何とかして、おもしろい台本を書こうとします。その ために、物語として話しやすい聖書箇所を選ぶでしょう。そうして、ストー リーを追いながら、あちこちに冗談を入れたりして、とにかく子どもたちが 笑いながら聞いて(見て)くれるように工夫することに力を注ぐのです。

聖書はむずかしくて、つまらない書物だから

ある時、腹話術であちこちの子ども会で用いられていた姉妹が、言いまし た。「私は、子ども向けのテレビをよく見ているのよ。そこで流行っている ことばとか歌とかを、人形に言わせたり歌わせたりすると、すごく受けるの よ。そうでもしないと、子どもは話を聞いてくれないでしょ。だって、聖書 の話なんて( 子どもにとっては) おもしろくもなんともないんだか ら・・・」それを聞いて私は一瞬耳を疑いましたが、後で考えてみると、そ れは多くのクリスチャンが心の奥底でかかえている葛藤であるかもしれない と気が付きました。実際のところ、聖書とはクリスチャンになった大人で も、難解な箇所が多いですし、ましてや、まだ信仰のない子どもたちにとっ て、いったいどう話したら理解できるのでしょうか。つい「子どもの時は何 も考えず、わからなくてもいい。とにかく、聖書にどんな話があるかだけで も覚えてもらえれば、大人になって本気で神さまを求める時に役に立つでし ょう」というのが本音かもしれません。

けれども、それでは、神さまがどんなに心を痛めることでしょうか。神さ まにとって、「聖書はわからない本である」という態度ほど悲しいものはな いでしょう。なぜでしょうか。

聖書は、生ける神さまのことばです

聖書は決して“イスラエル昔話”ではありません。イスラエルから始まって 世界中に伝えられてきた聖書の「福音」は、神さまから私たち人類(民族、 性別、年齢を超えて)すべてに語りかけられている「神さまのことば」なの です。神さまは、神さまのことを知らず、考えたこともない罪の中に生きて いる私たちのために、ひとり子イエスさまを人として遣わし、十字架、復 活、昇天、そして将来の再臨を通して、永遠の救いを備えられたことを、ど うしても知ってほしいのです。ですから、腹話術という賜物をもって、「人 形との会話」を通して、そのことを誰にでも伝えてほしいと願っておられる のです。

神のことばは、「応答」を求めます

聖書が神のことばであるということは、神さまから人間に対 する語りかけですから、「聞いた人は、理解した程度に応じて 応答しなければならない」という責任を伴うものです。つま り、どんな手段を用いようとも、聖書の話は、神さまからのメ ッセージとして語られなくてはならないし、聞いた側も、子どもであれ、大 人であれ、その時理解した程度に応じて、神さまに対して「返事」をしなけ ればならないわけです。(「信じます」とは限りませんが)

聖書は、見えざるにいます霊である神さまからの愛の語りかけです。「霊 のことは霊によってしかわからない」ものですが、人は霊的存在として造ら れていますし、霊の飢え渇きをもっていますから、聖書のことばは、聖霊の 働きによって、どんな幼子でも理解できるのです。それを信じて大胆に語っ てほしいものです。

2018年3月23日

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